戦場において、それほどの兵力の差がない場合には、古来から優れた戦術を駆使した方が勝ってきた。特に優れた天才的な戦術家が現れた場合には「寡兵(かへい)よく大軍を破る」と言われているように、少数の兵力や弱い兵力をもって、大軍や強い軍を破るというように歴史上を賑わしてきた。
孫子が言った「兵は詭道なり」を、地でいった戦術の例を挙げてみよう。まず、日本の天才・源義経が壇の浦で平家を破った戦いは、水軍の平家に対し陸軍の源氏が取った戦術である。12世紀の戦いはまだ弓矢で勝負がつく時代だった。源氏700隻、平家500隻と兵力では源氏が優っていた。しかし舟の上の弓矢の命中率は、水軍の平家の方が断然優れていた。源氏の兵力は多くとも、海の上の戦いではかなりの劣勢であることを大将の義経は見通していた。
だから潮の流れが不利な午前中に持ちこたえ、潮の流れが逆流する陽の落ちる頃に戦いを決する戦術にでた。当時、水軍の戦いの常識では兵を射殺して勝つことであり、漕ぎ手は戦いの外にいた。義経は漕ぎ手を狙い舟の操作を混乱させ、潮が不利な午前中に時を稼ぎ、夕刻になって潮が逆流すると一気に接近戦で押しまくり片を付けた。当時の海上での戦いでは、戦闘員以外の漕ぎ手を射殺することなど考えられなかった。平家にとっては、「義経、卑怯なり」と言うことかもしれないが、弱兵である自軍を勝利に導くための詭道であったのだ。
2つ目の例は、ローマの中興の祖と言われたカエサルが、政敵ポンペイウスとの最後の決戦であるファルサウス野で戦った戦術である。ポンペイウス軍は4万7000人の重装歩兵と7000人の騎兵に対し、カエサル軍は2万2000人の重装歩兵と1000人の騎兵であった。かなりの兵数の差であったが、とりわけ騎兵の差は致命的とも言えた。
なぜなら、この頃の戦いではアレクサンダー大王の開発した左翼から右翼の一方を強くして、強くした翼軍で相手を破り、そのまま相手の中央軍の後方に回り込んで、前後ではさみ打ちで全滅させる戦術が最強の戦術だったからだ。機動力のある騎兵同士が激突して勝った側が相手の後ろに回り込み、かく乱すれば勝てる方式なのだ。だから騎兵の差が7対1なら確実にポンペイウス軍は勝てるはずだ。カエサルは、相手7000騎兵を無力化する戦術を立てた。ガリア人との8年の抗争を通して戦場の経験が教えてくれたことは、馬とは勢いがなければ人を踏みつけられない臆病な動物だということだ。そこで取った戦術は、相手7000騎兵の突進に対し味方1000騎兵は多少戦ってから横に避けさせた。次に隠れていた肝のすわった古参兵2000人を、その場に投入。彼等が槍ぶすまをつくり、立ちはだかる。横に避けた騎兵は、その隙に後ろに回り馬を降りて槍ぶすまをつくり、前の歩兵2000人と共同して7000騎兵を囲い込んでしまった。7000騎兵は、勢いをそがれバラバラになって壊滅。その後1000騎兵は、ポンペイウス本軍の後ろに回り、かく乱し勝利した。馬の性質をよく見抜いていたカエサルの詭道ぶりは見事なものである。
以上2例が示すように、戦術には確かに時代の最強の戦術がある。そうした戦術をいかに上手く実行するかを目指して訓練を続けて、強い軍に仕立て上げる。しかし、寡兵・弱兵であったなら、セオリーの逸脱を視野に入れて戦術を練らねば勝てないという例であった。
競争の激しい現代の営業戦線において、最強の販売戦術は商品知識・アプリケ知識を修め、正面からぶつかっていくことであるが、成熟商品であったり商品力がやや弱い場合には、正面攻撃というセオリーの逸脱を視野に入れた個人的戦術思考が必要となる。
(次回は4月14日掲載)