「兵は詭道なり」という孫子の戦術論を噛みしめれば、本当に面白い。前回紹介した源義経の壇ノ浦の戦いでの詭道ぶり、「賽は投げられた」で有名なローマの将カエサルのファルサス野の戦いでの詭道ぶりなどを知れば、「兵は詭道なり」の面白さがわかるというものである。
もう一つ、孫子のお膝元の中国で有名な詭道を紹介してみよう。かの有名な背水の陣である。背水の陣という言葉はあまりにも有名であるが、一般的に使われているのは、劣勢になった味方が逃げ道を断って死にもの狂いで戦うといった意味で使われている。背水の陣の戦いは20万人の兵対2万人の兵の戦いであり、河を背にして逃げ道を断って、死にもの狂いで戦っても勝てるとは思えない。そこに詭道があったのだが、現代で使われている背水の陣という言葉は、死にもの狂いで戦うという意味だけになってしまっている。
では一体、背水の陣とはどのようなことなのか。時は秦の始皇帝が死んで中国全土が混乱の時、漢の国を建てた劉邦軍の将軍韓信が趙の国に兵を進めた。河北平野に出るため人馬が2列では通れない谷の道を、2万人の韓信軍が1列になって長蛇をつらなって行軍した。迎え討つ趙軍の総大将の韓信の巧みな戦術を知っている陳余。平野への出口に20万人の陣を敷いた。
予定戦場となる出口には城があり、ここに軍を集結させた。付近に小城をつくって兵を入れた。平野には河が流れ、城の外堀となっていた。韓信軍が谷道を出て平野に出てきたところを大軍で全滅する作戦で待ちかまえた。
一方、韓信は平野への出口20キロ手前で宿営し、奇計部隊2000人を編成。一人ひとりに漢軍の赤い旗をもたせ、敵の目を避けて夜間に山中の間道を通り、山の上から敵の城が見渡せる山中に隠れて待つことを命じた。
敵は全軍で韓信の首を取りに城を討って出るから、すかさず城に入り漢軍の赤旗を立てて、ドラや鉦ではやしたてろと命じた。韓信軍は翌朝に1万人の兵を先発させ、平野に出たら河の流れの敵陣側に陣を敷けと命じた。たった1万人の軍勢で、しかも河を渡って河を背にして、20万人の軍勢の前に陣を敷けとは、あまりの無謀さにびっくりした。
しかし韓信は言った。残り1万人を率いて、自分が河を渡って相手の予定戦場に到着しない限り、敵は攻めない。私の首を取りたいからだ。だから安心しろと。私の到着までの時間に、敵は河の流れの内側に陣を敷いた理由を考えつくすだろう。そして韓信自身が残りの1万人の兵を率いて河を渡った時に、なんだ韓信は結局、思っている程の策略家でなく戦いを知らないのだという結論を出して、われわれの陣に向かって全軍をあげて突進してくると読んでいた。
この駆け引きの間の取り方など、天才的策略家である。韓信の読み通り、韓信が河を渡って陣立てするやいなや、敵は全軍をあげて城を出て襲いかかる。退路が断たれている韓信軍2万人は立ち向かう。退路は河であり、逃げるわけにはいかず死にもの狂いで前進する。
もはや、これまでかと思われた時に城の後ろの山手に隠れていた2000人の兵は空同然の城に入り漢の赤旗を立てドラや鉦ではやしたてた。敵は後ろにある自軍の城を振り返ると、漢軍に占領されている。はさみ打ちにあったらと思った時、20万人の軍は浮き足立ち全軍総崩れとなった。
背水の陣を成功させるには(1)大将の囮(おとり)になるような危険を冒す(2)相手を読みきって手段を施す(3)部下に死を賭けさせる程の激務をさせるなら必ず勝てる策を立ててから命令する―ということになる。単に背水の陣で必死に頑張れと言っても、部下は真剣に行動しないことを知るべきである。
(次回は4月28日掲載)