中国では悠久4000年の歴史は、夏王朝から始するとされている。考古学的に実在が確認されているのは、紀元前17世紀の殷王朝からである。文献によれば殷王朝は紀元前21世紀に成立した夏王朝を倒したことになっているが、日本では夏王朝を伝説の王朝としている。それにしても中国の歴史書・魏志倭人伝が女王卑弥呼のいた邪馬台国の様子を伝えたのは、紀元2世紀後半から3世紀の中頃である。
当時の日本の邪馬台国の状況を思うと、中国の歴史はまさに悠久である。殷王朝のあとにできた王朝が周である。釣り好きな人に知られている太公望は、周で大活躍した軍師である。その周も前8世紀になると力が弱まり、周王室は名目のみの王朝となってしまい斎や楚、あるいは宋といった国々が覇権を争った。この時代は春秋時代と言われ前400年頃まで続いたが、やがて各国の戦いは激しくなり名目上の周王朝は滅びた。その後、秦・斉の2大強国を中心に有名な合従連衡(がっしょうれんこう)の外交が展開され戦いに明け暮れた前221年に秦始皇帝が統一した。この時代が戦国時代である。周王朝から弱まって、始皇帝が全国制覇するまでの500年間を春秋戦国時代と言う。
この時代、世は乱れ、安定を欠いたが儒学の創始者である孔子をはじめとした諸子百家といわれた宗教、哲学、法家、戦略家など多数の人材を世に輩出した時代であった。現代においても多くのことが春秋戦国時代の諸子百家の思想に影響を受けている。それから学ぶ多くの教えの中に「宋襄の仁(そうじょうのじん)」という有名な話がある。春秋時代に書かれたという孫子の兵法には「半ば渡らしめて之を撃たば利なり」という文言がある。
敵の半分が川を渡って、残り半分位は川の中にいる時に討てば敵に混乱が生じるから味方の利になるという教えである。ところが春秋時代に楚と覇権を争った宋の襄公という立派な君子がいた。楚軍との戦いの時、楚軍が川を渡っているのを家臣たちは見つけ「兵法通り今、討つべきです」と進言したが、宋の襄公は「君子たる者は人が困っている時にそこにつけ込んで苦しめてはいけない。相手が川を渡りきり陣形を整えてから戦いをしかけるのだ」と言って家臣たちを止めた。
その結果は敗れてしまった。「仁」とは思いやりのことである。これが有名な「宋襄の仁」である。孫子の世界は競争の世界だが宋襄の仁の世界は、まあまあ波風立てずにやっていこうという世界だから、非常に日本的である。敵はつくりたくない、悪者にはなりたくない、できればいい格好でいたいという考え方である。競争の世界の教えである孫子の兵法とは、まったく逆の世界である。宋の襄公は仁の人、現代風に言えばジェントルマンである。営業の世界でもジェントルマンであるべきなのだが、営業の世界も競争の世界である。だからジェントルマンであって、あまりにいい人では商機を逃がすことにもなりかねない。やはり、孫子的な感性を身につけておくべきである。
販売員の立場においても、いい人の行動では、取れる情報も取れない。販売員は相手に好かれたいから、どうしてもいい格好したい。いい格好をしようとすれば、格好いい素振りをするようになってしまう。だから情報を取るのではなく、情報を発信する側になってしまう。しかし、情報を聞きだすのが上手な販売員は格好の悪さを武器にして、顧客の本音を誘うのである。人は格好の悪さを隠そうとするが、それを隠さずに素のままを見せ、相手に話し易くしてやることなのである。
(次回は1月26日掲載)