『聞くは一時の恥、聞かぬは末代の恥』という言葉がある。最近、この言葉を使って人をさとすような場面があまりみられなくなった。かつて年輩者が若年者に向かって、「知らなかったら何故聞かないんだ」とさとした後に、よくこの言葉を言っていた。こんなことを自分の立場で知らないのは恥ずかしいと思う人がいるのは、昔も今も変わらない。だから、この言葉に後押しされ思い切って聞いてみようと思う人も出てくる。
近年、他人に聞かずとも簡単に調べられる環境ができているからであろうか、よく街で見かける光景がある。持ち歩いている地図や街の中にある道案内の看板と格闘しながら目的地を探している光景である。最近の若者はスマートフォンを見ながら目的地を探し歩いている。近年の東京の街は道案内が至る所にあるし、スマートフォンの地図は実によくできている。他人に聞かなくても目的地に独力で行けるので、それに慣れてしまうと、車の運転でよくナビを使って走るドライバーがなかなか道を憶えられないのと同じように、人に聞くという能力が鍛えられずに、人に聞く能力が欠落してしまうことになる。
現代は一事が万事、他人にかかわらずできてしまうことが多いため、人との接触のし方がぎこちない。『袖すり合うも多生の縁』ということわざが、これではいつか死語になってしまうのではなかろうか。人が集まって構成している社会にとってマイナスである。
特に日本人は仲間で物事を成すのに長けている。だから必要な時に関係者が集まって事を成せばいいのではないかとも思うが、何か日本人向きでない合理的な論理に見える。日頃、雑多な人達の集まりの中からおもしろいことが発生するし、雑多な人達との会話の中からふとした着想が生まれるのも日本人ならではなのだ。
『三人寄れば文殊の知恵』ということわざは同類の人達の集まりだと解釈するのではなく、現代では雑多な人達が三人集まれば、と解釈した方がいい。であるなら『袖すり合うも多生の縁』を大事にする世界をつくることが肝要である。
他人に聞くことがわずらわしくなって、自分でやってしまう社会で育った若者が現在、販売員になっている。営業に出てきた若者は昔に比べると、人との関わり合いより勉強が好きだ。自分達の販売する商品勉強会があると率先して行きたがる。商品知識を習得すれば商品のプレゼンテーションという道具ができて顧客訪問が楽になると思うからだ。特に技術者を訪問する時には必要だと思っている。それは間違いではないのだが、商品紹介にばかり頼らなくても顧客訪問をスムーズに果たし、有意義なコミュニケーションをするのが販売員だ。
昔の若い販売員も、商品知識という武器に頼らなかったわけではない。人との関わりや人に聞くことがわずらわしくない環境で育った昔の販売員は、一個の商品があればよかった。それをトリガーに使って顧客と諸々の話ができた。技術の経験のない販売員には、その商品をダシに使って、一体構造とはどんなことをやっているのかを興味深く気軽に聞いていた。
聞くのに慣れていない現代の販売員は商品や売り上げに絡むことは聞く。しかしそんな時でも、顧客から次々と質問され、聞きまくられると、販売員は自分の陣地の話であるから実に堂々と答える。自分の陣地の話になると販売員は楽になる。しかし楽を追いつづけることは営業の技量の向上にはならない。顧客との有意義なコミュニケーションとは何かを考え直す時だ。
(次回は8月7日掲載)