日本は90年代には成熟社会に入っている。近代的、文化的生活をする上で、必要な物が一応そろっているのが成熟社会である。販売員達に「今度の賞与が予想より10万円くらい多かったら何を購入したいか、または何がしたいか」と聞いてみると、大部分の販売員は少し考えて言う「まあ、とりあえず貯金します」と。各人色々な事情はあると思うが、もし同じ質問を新興国の人にしたら、即座に欲しい物やしたいことがあるという言葉が返ってくるだろう。成長期の日本もそうであった。
このような欲求の差が、それぞれの国の勢いの差となって表れる。欲求が即座に出てこなくなった成熟国は必然的に国に勢いがなくなってしまうのだろうか、と言うとそれは違う。まったく欲求がなくなったわけではないからだ。新興国のようにざわざわした騒がしいほどの勢いではないが、成熟国なるがゆえの落ちついた勢いをつくっていけるはずだからだ。欲求が社会や個人の勢いを作っていく。欲求がなければ成長は止まり、やがて個人の生活水準は下がる。それまで蓄えてきた預金は減っていくし、国も財政が破綻して社会のインフラのメンテナンスもできなくなっていく。特に現代のようなグローバル競争に曝されている社会では、ある水準に達したのだから、それほど欲しい物がないと言って、現状維持に甘んずれば古代ローマ帝国のように長い時間がかからなくとも、あっと言う間に没落の軌道に乗ってしまう。
成熟国では、新興国のようにあれも欲しい、これも欲しいという欲求はないが個人生活の質の向上や、より良い環境に生きたいという欲求を強く持ち続けている。落ち着いた勢いでゆるやかに成長しつづけている。欲求が持続する限り勢いはなくならず、衰退はしないということなのだ。しかし成熟していると言うことは、これまでにあった物事はあまり必要としてないわけだから、基本的に増産の必要はない。従来の産業設備の増設はないということになるから、産業設備に使われる電気部品・コンポーネントや計器類には成長期のような勢いはない。それでも、ものづくりの現場では年々生産性を上げるべく仕事に邁進している。
失われた20年と言われても、この業界は没落の軌道に乗らなかった。超円高もなんとか凌いできた。政治的・国際的に不利な状況の中で他国に蹴落とされずに幾ばくかの成長をしてきたのは、製造業において生産性の向上を必死の思いでやってきたことが大きな一因である。しかし、これだけでは成長していくには一杯一杯である。やはり新しい内需をつくりあげることが成長のギアを一段上げることにつながるのだ。したがって、電気部品・コンポーネントや計器を扱う販売員は従来の需要ではなく、新しい需要を追いかけなければ内需拡大の一助を担うことはできない。
製造業も成熟している。生産性向上のための需要は出てくるが、すべてが備わっている現場での売り上げは小さい。すべてがあるということは売る余地がないことに等しい。そうであるなら、新しい需要を発見したり発掘しない限り売り上げを伸ばせなかった創業時代の販売員の立場と同じだということになる。
オートメ業界の創業時代では目先の売り上げのみに固執するだけでなく、新しい需要を発見・発掘することによってのみ継続した売り上げ額を確保できた時代だった。その折の営業のやり方は、なんでも分からないことを聞くことだった。その積み重ねで、顧客のやっている製造というものがより具体的に分かるようになり、やがて需要の発見につながったのである。
(次回は12月18日掲載)