ダウンサイジング、リストラクチャリング(再構築)、少子高齢化、多種少量生産、コンパクトラインなどの言葉が90年代以降、次々と世の中に現れてきた。拡大一辺倒で進んできた日本が一服して次に何を目指したらいいのかと考える時に、ふと浮かぶキーワードのようなものかもしれない。
拡大イコール量と考えれば、これらの言葉は繁栄の踊り場から少しずつ下がるのではないかというイメージを与えるようだ。そこまでのイメージを持たなくとも、繁栄が止まってしまうと感じさせるようだ。世の中のことはすべてが拡大一辺倒であるわけがない。踊り場に立つということは、それまでやってきたことが飽和したという意味である。
商品30年説や事業30年説で言われてきたように草創、興隆、成熟、衰退がすべての事物にはつきまとう。わかっていても渦中にいると少し不安がよぎる。あらゆる事物がそのような周期を繰り返し歴史は動いてきた。学んできた長い歴史の中で節目節目に大きな変化が起こっている。その変化が後年になって時代の区分として認識される。
時代が変わることとは、時代が持つ制度、仕組みが変わることであるが、制度・仕組みが変化するのは、それまで使ってきた技術やその技術で生み出されたものが飽和状態に達してしまい、生産・仕組みが古くなってしまうということなのだ。制度・仕組みが変わるから新しい技術が生まれやすくなるのか、新しい技術が生まれたため制度・仕組みを変えなくてはならなくなったのか、それはそれとしても一つの時代の要素は技術が規定しているのだ。
歴史を変えるほどの技術の発見や進化は、天才の出現や地道な研究の積み重ね成果を待つとしても、一般的に起こる盛衰の周期の中で成熟を感じた後に衰退の方向に向かうのではなく、新たな草創に向かうにはそれまでと異なる技術がいるのである。それまでの技術を改良して、量の拡大を狙うなら、グローバル化された世界の市場に打って出るしかない。
冒頭の例に出したダウンサイジング、リストラクチャリング、少子高齢化、多種少量生産、コンパクトラインなどの言葉が次々と出てくる国内事情では、改良技術ではGDPが縮むことを示している。GDPが小さくなれば比例して国力が減衰することになる。グローバル企業が世界の市場で稼ぐ所得や海外債催の運用などの所得だけでは、領土拡大で繁栄を誇ったローマ帝国がパンとサーカスという状況に陥り、活気がなくなっていったのと同じ状態になる。そんな雰囲気になりかけていたのが失われた20年などと言われてきた時期と一致するようだ。
少子高齢化とは、人口減で物持ちの高齢者が増加するため消費が減るという現像であるが、需要は自動的に減っていくものではない。むしろ少子高齢化社会は新しく生まれる多種の需要の温床となる。その温床から今までにない事例が多数生まれる。そのためには異なる技術とベンチャーの心が必要となる。そこで生まれる製品の種類は多いが少量である。そこで多種少量生産になる。しかし、生まれた製品が割高であれば需要は広がっていかないからボツになる。だから需要の裾野を広げるために少量であっても安上がりの設備技術が必要だ。
コストの割高感のない製品が多数生まれれば、それぞれは少量であっても新しく生まれる製品の総量は多くなるため活気づく。その際の多種少量生産設備は、従来の設備と違ってロットサイズが小でいいので、ローコストオートメーションやコンパクトな生産ラインとなる。小振りであるが多くの装置、設備がつくられる。
(つづく)
(次回は9月10日付掲載)