江戸時代末期の頃に、鎖国体制をとっていた日本でも海の向こうの世界で、従来とは違う動きがあることを何となく感じとっていた。しかし、官僚体質で硬直していた徳川幕府は都合の悪いことは聞こうとせず、神君家康が決めたご法通り、という言葉を盾に取って従来からのやり方の変更を極力拒んできた。もっとも家康はキリスト教を禁じようとしたが、海外との貿易は信長や秀吉と同じように望んでいた。だから幕府が家康の名前を持ち出して鎖国体制を破ってはいけないとしたのは、家康の政策ではなく、ぬくぬくとした官僚組織を壊されまいとする抵抗であった。
硬直した官僚の抵抗は、ペリーの軍艦による恐喝でアッという間に崩れた。江戸時代も17世紀半以降、平和が続いたため江戸の文化は成熟度を深めた。
それは一国で生きていく文化の成熟度の完成図のようなものであり、幕府の官僚はこのまま続けば良いという思いが問題の先送りを繰り返してきたことになる。何事も従来からやってきたことが成熟度を増して安泰が盤石に見えてくれば、このまま進めばいいと思う。変化が感じられても、都合の悪い情報は先送りにしたくなる。それを破って革命なる改革を押し進めるには劇薬が必要なことを、幕末の黒船が教えている。
90年代に入って、日本はいよいよ成熟社会の色が濃くなり成長感が薄れだした。長いこと成長から遠ざかってきたが、その間に新興国の台頭、超円高、企業の国外移転、リーマンショック、貿易赤字の慢性化など、日本に襲来する不安が次々とやってきたのだが、黒船のような劇薬にならなかった。
江戸期においても、同じように海外からの脅威が迫っているという情報は入ってきていた。だから幕府の中枢である高級官僚も知っていたはずだ。1780年代の寬政年間にロシアの南下政策に危機感を抱いた林子平は『海国兵説』で海防の必要を説いた。寛政の改革者として教科書にも出ている老中松平定信は、その書籍をすべて破棄させた。聞きたくない情報は、聞かなくても事が足りれば無視または先送りをしたのだ。鎖国をやめて富国強兵を目指す政策に変更するには、劇薬黒船を待たねばならなかったのである。
現代でも同じことが起こっている。もう成長期は過ぎ、当時のような成長はないと感じても次々とやってきた不安を自分のこととして受けとめ、乗り越えようという気迫が漂って来なかった。その点では、江戸も現代も平和で安泰の世界が感じられている間は同じであった。
しかし現代の日本にも黒船は来た。2011年の東日本大震災である。あの時の感覚は幕末の黒船の到来に近いものがあった。物づくり日本はどうなってしまうのか、という不安はそれまでの不安と異質なものだった。
化石資源のない日本が経済的に豊かさを保つにはエネルギーの安定が不可欠だ。そのためには73年のオイルショック以上の省エネルギー意識が必要だった。しかし古い火力発電所を稼働させて、何とか電力危機が遠のくと国民一丸となった省エネルギー意識の高揚は遠のいた。
幕末でもすべての人が危機感をもって走ったわけではなかったが、走った人の熱意は半端ではなかった。彼らはざわついていた世間を引っ張って明治維新を成し、世界の一流国を目指した。
現代でも製品設計者や製造技術者の中には半端じゃない危機感を募らせている人々がいる。
東日本大震災でエネルギー不足の脅威を一度経験した世間は、彼らを応援する顧客である。顧客満足の実践は、省エネルギーの技術革新や連続的意識の変革から生まれる。
(次回は5月27日付掲載)