戦闘的な販売戦力づくり
変わり行くメーカー支援の概念
遠い平安時代の昔、現在の関東は京の都からは遠い遠いへき地であった。この時代に藤原孝標女が書いた更級日記の中に、父の地方官職が解かれて、京の都へ上る様子が書かれている。当時、地方官の地位についていた貴族には、どんなへき地でもいいからと任官運動をして、やっと地方官職にありついた貧乏貴族がいたし、京の中央政庁で出世の階段を上っていたが政争に巻き込まれて、京の都から地方へ追われた貴族もいた。
更級日記の著者の父がどういう経過で地方官になったかはわからないが、更級日記の書き出しは門出となっているから、天にも上るくらいのわくわくとした気持ちで京の都へ上っていく様が読みとれる。
藤原孝標女の父は任官が常陸国であった。現在の茨城県である。幼少より源氏物語など読み聞かされてみやびな京の都に憧れていた。東路と言えば当時は現在の東海地方を指した。その東路よりさらに奥のへき地の国で育った著者をどんなに田舎くさい娘だと思うだろう、という書き出しで日記は始まっている。
当時の京都と関東の経済格差は天と地ほどの差があった。だから、出世競争に敗れ京の都から地方へ赴任して行くことを都落ちと言った。そして再び京の政庁へ呼び戻されることを門出と言った。都落ちという言葉は戦後しばらく使われていたが、今では死語に近い。
戦後、日本経済は大いに発展して国家予算が1兆円を超えたのが1957年で、その頃、会社・工場は東京・名古屋・関西の大都市にあり、地方にはわずかしかなかった。したがって、地方に転勤してくるサラリーマンは、国家公務員や公共事業である電力・郵政・電話・国鉄などの職員と、わずかな民間大企業の職員であった。
当時の転勤サラリーマン族は、現地の人に比べ生活のセンスがどことなく違って都会の香りがした。それ故というわけではなかろうが、戦後しばらく地方への転勤者を都落ちと言っていた。
60年代後半には会社・工場の地方進出が相次ぎ、地方は勢いづいた。それに伴い、営業も拠点展開を始めた。大都市のような華やかさはない地方であったが、地方営業所への転勤者に都落ちという感覚はなく、地方で一旗揚げて凱旋するんだ、という門出の気持ちで勇んで赴任した。
地方は草深い所ではなく、広いエリアに工場は増え続け市場は広がった。メーカーの営業所は一人二人であり、毎日が客先開拓の日々であった。取り扱ってくれる販売店には拡販をお願いしていたが、思ったほどの効果は上がってこなかった。そこで積極的に販売してくれる数社の販売店とメーカー営業所は販売促進部会という会議体をつくった。
当初の販売促進部会は伝達事項くらいの稚拙なものであった。この時代に新商品が相次いで創出されたこともあって、販売促進部会では商品の概要や商品にまつわる技術の説明が主なものとなった。地方市場は年を追うごとに拡大し、販売促進部会は手探りでいろいろな行動をするための会議体になっていった。
顧客の設備は増え、新商品の種類は増え続けた。目の前にはやらねばならない目標が次々と現れた。工場の進出が続いていたから、毎日のように新規開拓は行われ、新商品が次々と発表されたから、それらを広めようと全顧客を訪問し、商品の使われ方を発見すれば、そのアプリケーションを該当客に売り込む横展開営業などが次々と行われた。
販売促進部会では前記のような新規開拓・新商品拡販・新アプリケーション横展開などを柱にして運営されていた。ここではディーラーヘルプとは、メーカーが販売店を支援するという概念より、戦闘的な販売戦力をつくっていくことであったのだ。