好意を表す表現の一つに握手がある。もともとは、私はあなたに敵意はありません、この通り何の武器も手にしていないので安心してください、という“敵意なし宣言”であったところからきている。遠い昔から、人は知らない人をそれほど怖がっていたのだ。現代でも程度の差こそあれ、やはり知らない人に対して不安が先立つものだ。
販売員が見込み客を訪問して最初にやる行為は名刺交換である。これは、敵意なし宣言の握手の現代版なのである。販売員は相手の見込み客にむげにされないかと不安を覚える。見込み客も、この販売員は何をしに来たのか、むちゃなことされないかと不安がる。
不安はこのように相手がどう出てくるかわからないために起こる。売り手の販売員と受け手の見込み客は互いに不安を少しでも消すために名刺交換という場を設ける。
営業は物を売るために相手の職場に攻めて行くのだから、少なくとも相手に嫌われないようにしなければならない。だから会社では販売員として配属される新人に、対面営業の基本動作を最初に教える。販売員が対面する相手と最初にやる行為は名刺交換である。販売員が相手に嫌われないようにするには、第一印象はとても大事である。したがって、最初の動作となる名刺交換の仕方を念入りに教える。
互いに名刺を出し合ったら受け取った後に差し出せとか、名刺は両手で受け取れとか、名刺入れを受け台にして、その上に相手の名刺を乗せて受け取れ、などという所作を何度もロールプレイしながら教えている。小笠原流的に丁寧な、美しい名刺交換の所作は日本人に好まれて、私は悪人ではないという印象をつくるのに有効である。
しかし、販売員と見込み客は知らない間柄ながら、これから駆け引きを始めるのである。相手も百戦錬磨のビジネスマンである。したがって、形の美しさ、丁寧さはとても大事なことだが、駆け引きをするための前提としては十分ではない。互いによく知らない同士であるから不安はいっぱいだが欲心もある。互いに欲心があるからテーブルにつこうとしているのだ。
見込み客側から見ると、いつものように長々と商材をアピールされるのだろうか、最近の販売員は興味ある商材を持ってこないが、今回の販売員は何を紹介してくれるのかなと期待もしている。攻めて行く販売員側から見れば、緊張と不安はいっぱいだが今回持参した商材は製造現場で使用される新商品だから、きっと気に入ってもらえると思っている。
このように、興味ある商材を持ってくるかもしれない。この商材に興味を示してくれるだろうという互いの思惑は普通に考えれば賭けのようなものであり、かみ合わないことの方が多い。
しかし、せっかく販売員が面談にこぎつけたのに失敗はもったいない話だ。失敗とは、また訪問されても困るという雰囲気を作ってしまうことだ。この雰囲気を回避するには、第一関門の名刺交換は丁寧な所作のみではダメなのだ。
一般的に販売員がやっている名刺交換は、制御機器や電子部品を扱っているとか、◯◯メーカーの販売店をしているとかの枕詞をつけて◯◯会社の◯◯です、よろしくお願いしますと丁寧な型通りのあいさつになる。
このような型通りでは自分はどんな人間かが伝わってないから、ご安心くださいという握手にはなっていない。真の芸人は舞台に出てちょっと顔を傾けただけで観客はどっと笑うという、そんな名人芸を経験の浅い販売員はできない。
だから面談がうまくいってほしいという欲心を捨て、良い関係になりたいことが伝わるように自分流儀で必死に表現することが大切だ。それが相手に安心感を与えることになる。墓売りのウィリー・ゲールはそれを実践した。