バブル崩壊から30年が過ぎ去った。かつて『失われた10年』と呼ばれた日本経済の悲劇は、10年を過ぎても続き、今日の若き日本人から「何が失われたのか?も分からない」と言われても不思議ではないほどバブル時代は遠い昔のこととなった。
平成元年の頃、世界経済の頂点に君臨していたのは日本企業であった。世界の時価総額ランキング上位50社に、日本企業の35社がランクインし、日本は光り輝いていた。たったの30年が経過した平成の最後、世界の経済界から日本企業の姿は消えた。令和にバトンが渡った現在、上位50位にランクインできる日本企業はトヨタ1社であり、それも35位。かろうじて入っているのみである。日本企業の労働生産性も低く、先進国最低となってしまった。 事実、平成時代は名実ともに『失われた30年』である。
「失われた30年、失ったものはなにか?」その答えは、日本人の「自信」と「誇り」。そして世界から羨まれる「日本の力(国力)」と「日本の信頼」である。
なぜこうなったのか? この原因を究明すると、「グローバル化」というキーワードに踊らされた日本企業の不幸が浮き彫りになってくる。 バブル崩壊で、自信を失った日本の大多数の経営陣は、政治家やメディアが掲げる「グローバル化と構造改革」を経営の旗印とし、日本で育まれた日本の企業文化を放棄し、米国の掲げるグローバル価値観に追従することに血眼になってしまった。
この結果、国際市場では韓国、中国にボロ負けし、国内ではリストラで技術も人材も失い、残った社員のモチベーションすらも低下した。家電大手企業の悲劇がこれをもの語っている。
戦後75年間の歴史を精査すると、歴史の中から日本経済のパラダイムを大きく揺り動かした『3つの事件』と、グローバル化の本質が見えてくる。
最初の事件は、戦後間もない①1951年の日米安保条約締結。2つ目は、②1985年のプラザ合意。そして最後が、③平成初期のバブル崩壊である。
1951年の講和条約とともに締結された日米安保条約により、日本は自由主義陣営に所属することが決まった。すべての経済活動の歴史的原点がここにあり、「新しい価値観を持つ日本人が起業し、新しい日本国家の建設が始まった」瞬間である。
戦争を放棄した日本は、まずは飢えをしのぎ「食料を手に入れること」に邁進し、その次に「経済力の向上」という課題に向かって一丸となって突き進んでいった。これが国家の明確な目標であった。この目標のもとで、製造業が復活し「日本人が、日本人の顧客のために、日本の工場で作る」概念が徹底され、最新の国産機械も誕生し、世界最高のものづくりを純粋なる国産化によって日本は手に入れた。
日本の工場が作り出す製品の機能や品質は、世界№1である。この頃の社会人は、皆が夢を描き、豊かさを求め、先端技術に挑戦し、「希望と勇気」を持って、過酷な労働に励んでいた。エコノミックアニマルとまで比喩された日本人の過剰労働は、終身雇用制をベースとした企業村社会での、自発的な行動の結果であり、これが日本式経営として日本中に定着した。
日本式経営のもとで最先端技術が花開き、日本の顧客のために日本ニーズを組み込んだ日本製品は、信頼のブランドとして世界中でも話題となった。各企業は、日本で成功した商品を世界中に販売拡大する戦略を推進した。
この国際化を「インターナショナル化」と呼び、大成功を収めている。国や国境を意識しない「グローバル化」とは全く異なる国際化である。
大成功を収め、喜びに湧く日本経済に衝撃を与える大きな国際的事件が、1985年に起きた。ニューヨークプラザホテルで開催された先進国蔵相会議(G5)で、世にいう「プラザ合意」である。
プラザ合意は、円高・ドル安への誘導合意である。円はこの合意により急速に円高に振れ、1ドル230円台から1年で150円まで円高が進んだ。
これにより、各企業はそろって低賃金のアジアに工場を進出することを戦略に据えた。「日本人が、日本人の顧客のために、日本の工場で作る」パラダイムが崩れ、「アジア人が、日本人の顧客のために、アジアの工場で作る」というパラダイムシフトが起きている。
円高不況を克服し、逆に円高をきっかけにバブル経済が芽吹き、土地や株式は高騰し大儲けする企業が続出した。企業も個人もお金持ちとなったが、夢は続かない。平成の時代の始まりとともに、バブル崩壊が始まり『失われた30年』が始まったのである。
今回のテーマである「グローバル化」が日本で始まったのは、バブル崩壊以降である。「世界の誰かが、グローバルの顧客のために、世界の何処かの工場で作る」がグローバル化である。同じ国際化でも「インターナショナル化」と「グローバル化」の違いを歴史から学ぶことができる。令和時代の製造業再起動に大きな障害となるのは「グローバル化」の思想である。
世界中の顧客ニーズを得るためにグローバル・マーケティングを日本の企業が行うことは、極めて難しく、国境をなくし、人・資本・モノを自由に移動し経営を行うことが、日本人にとって最も苦手であることは歴史が証明している。
令和時代の製造業再起動のポイントは、①国内工場への回帰(リショアリング)②短期戦略としての外国人労働者の雇用③IoT/デジタル化及びロボット化による徹底的な自動化工場の推進である。
世界にばらまいた優秀な社員も国内に戻し、日本の本丸を固めることに尽きる。日本の歴史・文化を学び、日本人としての自信と誇りを取り戻し、皆が大富豪になることを目標 に据え、令和時代の製造業の発展戦略を練ることが必須である。
すべての人々が団結し、日本の国力増強を考えて実行さえすれば、令和の幸せが実現するだろう。
◆高木俊郎(たかぎ・としお)
株式会社アルファTKG社長。1953年長野市生まれ。2014年3月までアマダ専務取締役。電気通信大学時代からアジアを中心に海外を訪問して見聞を広め、77年にアマダ入社後も海外販売本部長や欧米の海外子会社の社長を務めながら、グローバルな観点から日本および世界の製造業を見てきた。