お墓の販売で全米一と自負していたウィリー・ゲールの小冊子『心理販売術』には、最初からカタログを活用して見込み客の歓心を買ったとは記されていない。商材が墓であるから当然といえば当然だ。知り合いの紹介で見込み客を訪問することが多かった。だから会うことは会ってくれる。しかし、最初からカタログを広げていかに上手に説明しても、興味がなければ物が物だけに、話を聞くという義務感から早く解放されたいだろうと彼は感じた。
そこでまず相手のことを知るために、相手は大きな白紙であると見立てて会うことにした。見込み客の人生や人生観、取り巻く環境や信条、その他今後の欲求など、多くの“?”マークのある人と見立てて会ったのである。
現在の部品や機器を扱う販売員が見込み客の開拓を行う時、見込み客を見つける手段の一つに、メーカーや顧客からの紹介がある。紹介してもらったら、気の利いた販売員は見込み客を訪問する前に何をしている会社であるかをネットで調べる。ウィリー・ゲール的に言えば、相手は白紙状態ではないことになる。現在のような情報化の時代に「相手は白紙同然」という考え方は参考にならないと思うだろう。果たしてそうなのか。
ウィリー・ゲールの活躍していた時代は、部品や機器販売の勃興期でもあった。使ってくれそうな見込み客を訪問する際には、工場名鑑を見て何を作っているのか位はわかっていた。つまり昨今の販売員がネットで調べることと同じ程度のことを知って訪問していた。それでもウィリー・ゲール的に、見込み客は白紙であることを参考にして会った。
情報社会にいる販売員は油断がある。調べればわかるという油断である。だから名刺交換にも油断が出て、簡単に済ませてしまう。ウィリー・ゲールは、いきなりお墓の話はできない、まず相手とコミュニケーションの場をつくらねばならないと考えた。
当時、この心理販売術に影響を受けた営業でも同じであった。なぜなら製造現場ではまだ自動制御は未成熟であり、現場にいる電機や機械担当の人はお墓と同様に関心を示す人が少なかったからだ。
コミュニケーションの最初の場は名刺交換である。ウィリー・ゲール的に相手の名刺を大きな白紙と見立てれば、たくさんの“?”マークがあることに気づく。見込み客と交わす最初の会話は、名刺から浮かび上がるいろいろな興味や疑問であった。
社名の由来を聞いてみたい、技術2課はどんなことをしている部署なのか、2課があるなら1課、3課はあるのか、またそれらの役割とは。社是があればその事に軽く言及してみる、マークがついている名刺を見ればマークについて言及してみる。その他たくさんの“?”が名刺にはある。
名刺には人格、法人格が表現されているから、その事に触れると自分が認められるという意識があって相手は素直に答えてくれる。
ウィリー・ゲールは“?”マークをつぶすことで見込み客の情報をできるだけ取った。その情報を攻めていくための材料にしたのであるが、当時の機器や部品営業が実際に行った名刺交換は情報を取ろうとするよりは、相手とコミュニケーションをするためにできるだけ相手に話してもらうことを目的としたのである。つまり名刺交換はあくまでも相手から警戒心を消し去ることである。
人は自分のことを多く語ることによって警戒心を解く。したがって立ったままの名刺交換での数分間の会話は、販売員と見込み客をグーッと近づけさせるのである。それに販売員も不安感が薄れ、最初にあった緊張感がやや解けてリラックスできるようになる。
私はこの名刺交換の情景を『名刺で5分』と言って、見込み客へのアプローチの重要な関門にしている。