1960年代に制御機器や部品販売の教材となった小冊子があった。筆者はアメリカの墓売りセールスマン、ウィリー・ゲールであり、タイトルは『販売心理術』であった。墓売りの彼が墓の商談に持ち込むためにまずやらねばならないことは、相手の素性を知ることであった。
訪問するにあたっては、一応紹介者からざっと素性を聞いてはいるが、商材が墓だけにそのような通り一遍のことでは役に立たない。彼は見込み客を白紙に見立てた。白紙の上に見込み客に関して知りたい多くの「?」マークを書き記した。そして、その「?」マークを一つずつ塗りつぶそうとの思いで勇んで面会した。
会ってみると多くは立派な紳士であった。彼は緊張して身が縮んだ。
「位負け」という言葉がある。相手の地位や品格に圧倒されて、普段の力が出しきれないという意味である。ウィリー・ゲールは立派な家、立派な紳士に位負けをしてしまった。彼は聞いておきたい質問を準備していたのだが、位負けをしてしまい余裕を失った。何をどのように聞けばいいのか分からなくなって混乱してしまった。思いついた言葉や質問を出してみたものの、相手にとっては唐突なものとなっているからちぐはぐな会話となり冷や汗が流れ、勝手に玉砕してしまった。
しかしこれも慣れが肝心であり、数を重ねるうちに、ある時、気がついた。位負けをしてきた相手は、立派な紳士であればあるほど実に優しく対応してくれる人であり、思っていたほどに難しくて怖い人ではないことが分かった。いずれ墓を買うほどの人は立派な品のある人であるが、位負けをする必要のない気のいい紳士であり、ちゃちゃな紳士と自分に言い聞かせて面会することにした。
そのようなイメージトレーニングを重ねて位負けをしていた自らの呪縛を解くことができ、緊張せずに話を進めることができた。
販売員は、資材や購買の人に紹介されて開発技術者に会いに行く時に位負けをする。やっと会ってもらえた開発技術者は偉い技術を持っている人に見え、技術に弱い販売員はその前に立つと異常な緊張を覚える。とっさに出る言葉は、「紹介させてください」程度のことをやっと言って名刺を取り出す。名刺交換した後、相手から何の問いかけも出なければすぐ会社や商材の案内に移るというワンパターンの型になっている。この一連のワンパターンの行動から脱却できないのは、ウィリー・ゲールと違ってその商材にある。
墓の場合、相手が何も問いかけてこないからといって、いきなり墓の話は出せない。出した瞬間に相手は引いてしまうことは誰でも想像できる。
一方、機器部品の場合、興味あるかどうかは不明でも一応商材の話は聞いてくれる。この商材の違いは、販売員に必要な観察や面談の工夫、あるいは精神的なタフさという営業力の違いとなって表れるのだ。
ウィリー・ゲールは苦労の末、イメージトレーニングにより位負けを克服した。機器部品の販売員は緊張した経験を少しはしているが、ウィリー・ゲールのように真っ白になることもなく一連のワンパターンを繰り返す。少し営業慣れしてくると、自分の側のことばかりでなく、相手のことにも言及するようになる。しかしそれも名刺交換の後に出る言葉は「お忙しいですか」「今、何を設計されていますか」のようなことであり、あまり実のある会話に発展しない。
平成も終わり令和の時代に入っている。いろいろなことが変わっていく中で、一連のワンパターンからの脱出は必要だ。ウィリー・ゲールは教えてくれている。
位負けを克服するには①位負けを自分の側の説明でごまかさないで位負けに慣れること②相手が分かれば緊張しなくなることである。