異なる意見同士が歩み寄って、譲り合って一致を目指すことを表す「妥協」。平和的な解決手段であるはずなのに、どうしてもこの言葉にはマイナスイメージが付き纏う。一方、英語で妥協は「compromise」と言い、マイナスイメージはあまりないそうだ。意見が異なる者同士でも歩み寄ることで何かを得られるというニュアンスが強く、逆にプラスイメージで使われることが多いという。妥協の場合、相手に歩み寄る、譲ることイコール自分が当初想定していた100%の成果が損なわれる、欠けるというニュアンスがあり、マイナスイメージになってしまっている。この違いは、完璧主義で、こだわりが強く、保守的で案外と頑固な日本の文化を良く表している気がする。
最近、SNS等で交わされる議論や炎上した案件を見ていると、「○○でなければならない」「○○であるべき」という言葉を振りかざしている場面をよく見る。自らの信念や正義感を持つことは大切だ。しかしあくまでそれは個人の考え方であり、その時の状況や置かれた環境によってはその大前提となっている基準は変わる。それを考慮せず、こだわることは自らの足枷となり、前に進むことができなくなり、結局は自らの首を絞めることになる。こうした「べき論」を金科玉条として過剰に奉ることは、損多くして益は少ない。特にこの変化の激しい時代では尚更だ。
製造業を見ても、いまだにかつての成功体験や景気の良い時の考え方や仕組みのままアップデートされていないケースをよく見かける。今のように物が溢れていて、隙間を見つけて、工夫して売らなければいけない現代とは違い、昔は物を作れば売れた時代。その時を基準として作られた「べき論」は、今では足枷になっていることも多い。残すものと変えるものを見極め整理し、新たな時代の「べき論」を作る時期に来ている。この厳しい経営環境下、今までのやり方にこだわっていたら得られるものも得られなくなる。どこかで妥協し、得るものを得て次に進むことが重要。それこそがDXでいうところのX、トランスフォーメーションにつながるのだ。