あけましておめでとうございます。世界的にコロナ禍は終息に向かっており、昨年の年明けと比較すると、世の中のコロナに対する警戒心には雲泥の差がある。やっと活況を取り戻しつつある良い雰囲気のお正月である。久方ぶりに賀詞交歓会も勢いがついており、 筆者も多くの方々と賀詞交歓会でお会いし、勇気づけられるコメントを多数頂いた。
今回は、製造業界の内外環境を踏まえ、中小製造業界の予測を立てつつ、今年の中小製造業の吉凶を占ってみたい。 2023年のキーワードは『天気晴朗なれども波高し』である。今年は総じて受注環境は晴天である。『天気晴朗』、多くの中小製造業は過去にない受注に見舞われるであろう。自動車のEVシフトによる自動車エンジンの製造衰退など、悲観的な報道も目につくが、円安基調を背景とした「リショアリング(製造の日本回帰)」などにより、中国はじめ諸外国から膨大な仕事が日本に回帰するので、中小製造業には有史以前の膨大な受注が舞い込んで来るのは明白である。ところが『天気晴朗』といって浮かれているのは危険である。「人手不足」という深刻な課題が存在し、多くの中小製造業がこの課題に直面すると思われる。昨年22年、突然の円安に襲われた。諸物価高騰など、生活圧迫が連日のごとく報じられる一方で、完成品メーカー・大企業は好決算に湧いている。円安はメディア報道の通り、電気・ガスなどの値上げによる「コストプッッシュ・インフレ」により庶民の生活を圧迫する悪影響を否定できないが、1985年のプラザ合意以降、30年以上に渡り苦しめられた円高が、突然霧が晴れるように消滅したことの意義は極めて大きい。
今年は、海外に流出した仕事が日本に本格還流する元年となる。特に中国は、すでに国際的サプライチェーンの製造立国としての地位を失っており、日本企業の中国撤退や日本への製造回帰は必須となった。この傾向は昨年から始まっており、多くの中小製造業はこの流れを察し、国内製造の強化を経営方針とし、国内製造の生産性向上への打ち手を講じている。この事実を裏付ける興味深い事実がある。日本鍛圧機械工業会は、22年の鍛圧機械の受 注実績は、『前年比12・5%増と2年連続増加となり、(過去最高額の)18年に匹敵する高いレベル』と発表した。日刊工業新聞は、この発表をうけて『コロナ禍からの回復鮮明』 『鍛圧機械受注最高額に匹敵』と大々的に報道している。紙面では、補助金での押上効果 にも言及しつつ、今後の動向にも楽観的な報道をしている。昨今の日本には、なんとなく不景気ムードがある中で、昨年『過去最高水準の設備導入が行われた』という事実に驚愕し、イメージとの違いに当惑される御仁も多いと思うが、これが事実である。
では日本の中小製造業は、最新マシンの導入で明るい未来が待っているのか?と問えば、その答えはNOである。『最新マシンを導入すれば経営は安泰』など、そう簡単に問屋は卸さない。少子高齢化により、労働人口の減少は顕著であり、中小製造業の「人手不足」は深刻である。どんなに受注が増えても、最新マシンを導入しても人材なくして成り立たない。人材不足の『波高し』である。 数年前、移民法改正を背景に外国人労働者の活用が話題となり『積極的に外国人労働者を活用しよう』とする風潮が中小製造業に蔓延したことがある。このトレンドは、コロナ禍 によって下火となったが、冷静に考えれば、今日の中小製造業の人手不足は外国人労働者で解決できるほど簡単な問題ではない。
ここで、筆者が直近で出会った事実を紹介する。静岡県のM社。社長と奥様に将来の後継者の息子が経営する家族的中小製造業。従業員30人の金属加工の会社である。 昨年はコロナや鋼材価格の高騰で苦しめられたが、近隣の発注元から大量の受注案件が舞い込んだ。とても嬉しい悲鳴であるが、社長の奥様が仕切っている事務所が大パニックに陥り、工場操業が悪化した。この苦境をDXにより克服した物語を紹介する。事務所では、受注処理や工場への指示書の発行から売上処理と請求書発行・経理処理など、広範囲に渡る仕事をこなしているが、従来のキャパシティーを超える業務が増え、残業が常態化する事態となっており、人材採用を試みても結果は採用ゼロ。事務所はギリギリの状態で仕事をこなしていた。 ここに大量の新規案件が舞い込んだ直後、不幸にして奥様がコロナに罹患した。事務所は大パニックとなり、工場への指示書も発行できず、工場が稼働できなくなった。事務所の人手不足が招いた災難である。M社では、現在RPA(ソフトロボット)を活用し、事務所工程の大幅省人化を推進し、大成功を収めている。23年の『波高し』の克服は、RPAなどの最新技術活用におけるDX化に実現に尽きる。DX化とは、まさにベテラン人材のアシスタンを担う仕組みの構築である。
◆高木俊郎(たかぎ・としお)
株式会社アルファTKG社長。1953年長野市生まれ。2014年3月までアマダ専務取締役。
電気通信大学時代からアジアを中心に海外を訪問して見聞を広め、77年にアマダ入社後も海外販売本部長や欧米の海外子会社の社長を務めながら、グローバルな観点から日本および世界の製造業を見てきた。