平成で足踏み状況にあった国内総生産は、令和に入ってから少しずつ上昇し、ようやく 600兆円の大台を超えた。
日本の高度成長が始まっていた前回の東京オリンピックの頃は国内総生産は 30兆円の規模であり、日本企業の大半は中小企業であった。
その頃の電気業界も、重電メーカーや大きなマーケットになりつつあった家電や通信機器メーカーを除けば、大半は中小メーカーであった。FAのマーケットを担当する日本電気制御機器工業会(NECA)もその頃に設立された。当初のメンバー企業は大手の重電や家電メーカー以外は中小企業であった。
FA中小企業にとって商品売り上げは大事であるが、それよりも大事なことはマーケットの開拓であった。中小企業であるが故に、現在の大企業のようにROE(自己資本利益率)を心配する必要はなく、成長一筋であったから勢いがあった。顧客からの1個2個の商品開発の依頼であっても、他の工場の現場でも使えそうだと思ったら、営業担当は粘って製造部門と交渉をした。そこは中小企業のいいところで、手組みで作ってくれたりもした。結果的にはそれほど売れない商品もあったが、徐々に商品の種類は増え続けた。その後、GDP の拡大や列島改造論に乗って工場が地方に進出した。それらの工場は自動化を推進したから FA マーケットは一気に拡大し、FA メーカーも大企業への道を歩き始めた。
当時は、日本を代表する半導体メーカーや通信機器メーカーが技術力で世界を牽引している状況だった。米国の科学技術者は、新しい産業を大きなマーケットにした日本の半導体産業のイノベーション力に注目した。その結果、「イノベーションは安定的な組織経営からは生まれない。スモールビジネスこそがリスクに挑戦できるから成功するんだ」と結論付けた。米国はその進言に従い、1999年から官民上げてベンチャー企業育成に力を入れ始めた。米国のベンチャー企業だった IT 企業のその後の勢いは知るところである。
しかし米国が気づく10 年前に、現場から上がってくる情報がトップまで届かなくなっていることやリスクに挑戦する意思決定が遅くなっていることを感じ、大企業病にかかっているというフレーズを日本の津々浦々に流行させたのは FA 企業だった。
現在の FA マーケットはもはやニッチではない。メーカーも商社も上場企業が多く、すでにベンチャー企業のイメージはない。FA メーカーは FA の要素技術を組み合わせた複合化製品や IT 技術を取り込んだシステム製品でマーケットの拡大戦略を取る。だから、従来の機器や部品メーカーのイメージから遠い搬送ロボットのような高額の製品や IT オートメーションシステム製品に力が入っていくことになる。
平成のデフレ期は、生産工場の方針はおおむね生産力強化より生産効率向上に重点を置いた。令和期が順調に進めば、国内総生産は上昇する。当然、生産工場は生産効率もさることながら生産力強化に重点を移す。国内のトップクラスの企業は高度なロボット製品や IT システム製品を使った設備の導入を推進する
しかし、国内総生産の上昇はそれらの高度な FA 設備を導入する工場が増えるだけではない。社会のニーズは新しい需要を呼び込んで新しい製品を生む。それらの製品が付加価値の取れる製品や大量生産のできる製品なら最新鋭の設備を導入できるが、社会が求める新しい製品は付加価値や量産が約束された製品とは限らない。したがって、新しい製品は当初から理想的な自動化設備を使った生産を望めない。むしろローテクに近い設備で間に合う。昔と違い、それらの設備を作る環境は、設備用部材の多くが汎用化されていて手に入る。それらを使ったコンパクトな設備、マーケットを広げていくのは中小販売店の営業の役割である。