今日のコラムでは少し切り口を替えて、昨今議論されている義務教育やその後の高等教育について考えてみたいと思います。技術者も、もとをただせば義務教育、そして高校、高専、専門学校、大学、大学院といった高等教育を経て社会人となることを考えればこのテーマも技術者育成という観点で無視できない内容になるかと思います。
日本の暗記型教育は間違っているという論調が多い
例えばですが、最近の日経新聞の記事に– 言われた事しかしないのは記憶中心のインプット教育の弊害– 社会で必要なスキルは変化し、ゼロから創出する力、マネジメント能力であり、今の日本の教育は通用しなくなっている– 塾では受験テクニックしか教えない、と書かれています。
その後は、塾への出費が大きく、経済格差が教育格差につながるという、確かに今の日本に見られがちな状況にスポットが映り、その後、いい学校に入るために時間と費用をかけるより、ITや英語の力を磨くために使うほうが世界で通用する人材を育てる意味で有意義だ、とも書かれています。
恐らくですが、マスメディアにおける論調は似たようなものが多いのではないでしょうか。私自身は受験は高校からだけですが、大学、大学院、海外インターン、国内外でのプロジェクトに技術者として参加し、今は自らの技術力を軸とした企業を経営している、という一連経験を踏まえると、上記の話はもちろん一側面としては正しく、別の側面では恐らく現実とは違う話かと感じています。
暗記型、思考型教育とは
私個人的には暗記型、思考型の教育という言葉の定義がわかるようでわからないというのが本音です。いくつか類似の記事を拝読しましたが、恐らく言いたいことは以下のようなところに落ち着くのかなと感じます。
暗記型:ひたすら覚えて、それをそのまま枠に当てはめるような教育法。
思考型:まずは考えさせ、その一方で自らの有する知識を応用しながら、自らの考えをまとめていく。
これをみると、それはもちろん後者の方が良いですね、という話になっていくのかと思います。では、実際に研究開発を主な業務とするような技術者を一例に、この教育理論をどのように考えるべきかについて述べてみたいと思います。
ある程度暗記するということはどのような業務でも不可避
まず最初に指摘すべきは、思考型と呼ばれる教育でもある程度「暗記する」ということは不可欠だということです。これは、自らの考えを論理的にまとめるにあたって、「自らの知識を応用し」といった旨が思考型教育でも必要だと書かれていることからも、その認識が裏付けられています。技術者の中には、新しいことを覚える、より正確には「理解しようとする」ということに頭を使いたがらない人もいます。
その理由は簡単なことです。「覚えるということは、頭にストレスのかかることだから」です。暗記型、思考型の教育の理論もそうですが、思考型が望ましいということに対して「暗記をするという頭にストレスのかかることをやりたくない」という自らの逃げの理屈を当てはめているケースが散見されます。
結論から言うと、新しいことを理解しようとする(結果として覚えることになりますが)ということから逃げる技術者は、必ず後で苦労をします。つまり、受験や試験という経験において、できるできないは別として「自分との戦いを精一杯やったか」は、その後の技術者としての成長に大きな違いをもたらすといえます。頭にストレスのかかることから逃げる癖がついた技術者は、戦力として成り立たなくなっていくでしょう。
自らの頭を使うということから逃げた元受験生が技術者になると、、、丸投げする、べき論をかざすだけで動かないといったのが行く末の一例です。よって、思考型教育が正しいということに全く異論ありませんが、理解を伴う記憶は技術者になっても絶対に必要である、といえます。覚えることをしなくてもいいのだ、という拡大解釈をしないことがポイントです。
教育を通じて将来の技術者が習得すべきスキルは何か
多くの時間とお金を費やす受験。これを通じてどのような部分を技術者という社会人になってから生かすのかについて考えます。ここについては至極シンプルに理解すべきです。結論から先に言うと、「勉強の仕方、特にわからないことを調べるやり方を覚える」です。何かの問題文を解こうとして、それがわからない場合、教科書や参考書を調べて解こうとすると思います。
外国語であれば辞書を引いてその意味を理解し、文章内容を理解しようとすると思います。このようなわからないことを調べながら、内容を理解して、自らの知識として覚えるというのは、技術者にとって大変重要なスキルです。この勉強のやり方は暗記型、思考型共通で存在するやり方なので、ここはきちんと習得する必要があります。
技術者の成長につなげるにあたり、教育で最も重要視すべき科目は何か
これも是非お伝えしたい内容の一つです。このテーマについては、過去に小学校で講演する機会があった際、議論させてもらったこともあります。
結論から言うと国語です。極端なことを言うと、外国語である英語をやる時間をすべて国語に費やしてもいいくらいです。外国語を学ぶのは、母国語がきちんと理解できた後の話です。ましてや、情報技術やプログラミングはずっと後回しで良い。これらも、母国語で自らの考えを俯瞰的に整理できる論理的思考力が未熟な段階でやっても、プログラムの設計はできないからです。まずはこれらのスキルの土台となる国語を中心とした母国語をについて、話す、聴く、読む、書くが不自由なくできるのが最優先です。特に教育で重視すべきは「書く」です。
多くの技術者は、自ら行った技術的業務について、行った事実について明文化する、というスキルに乏しい。しかし母国語できちんと文章を書けるということは、技術者にとって技術報告書をかけることにつながり、それが企業の知見の蓄積につながるのです。
最も大切なのは外に答えを求めないこと
最後に今回のテーマにも関わる最も大切な部分について述べたいと思いますこれは様々な企業の指導をしていても感じることですが、技術者を抱える技術系企業の将来で危ういと思うのは、「外に答えを求めている」ということです。冒頭紹介した論調でも「世界に通用する」という表現が散見されますが、その多くは欧州と北米を無意識に意識した海外を基準に考えられている方向性です。
何故、自分たちが主体となってロジックを引張って行こうとしないのでしょうか。先程も出てきた言語について、何故外国語を学ぼうとする一方で、日本語を世界的な言語にしようと考えないのでしょうか。何故AIや脱炭素といった海外の風潮に乗っかるだけで、自分たちから風を起こそうとしないのでしょうか。
私個人的には、主体的に議論を引張ろうとする風潮が乏しいこと自体が最も大きな問題であり、これこそが技術者に求められる思考的教育の本質ではないかと感じます。つまり、海外がどうこうではなく、「技術者たちは自分たち、そして自社という自らの強みは何であり、それをどのようにして世界基準としていくのか」ということを考え続けることが最重要だと思うのです。まさに答えのない思考型のテーマではないでしょうか。
もちろんこのようなことを考えている日系企業がいるのは理解しています。ただ、まだ少数派です。外(欧米)と比べて自分たちは何が劣っているか、という外に答えありきの考えではなく、自分たちで考えを導き出す。結局ここが思考型教育の最重要の所であり、技術者の教育はもちろん、義務教育や高等教育の本質でもあるのではないかと感じます。
不安な時代では答えを求めたくなる気持ちはよくわかります。今まで日本は古くは中国から、近年は欧州、北米から様々なものを導入して発展してきたといえます。これから先、おそらく誰も正解を持っておらず日本も今までのように外だけに答えを求めるわけにはいかないのです。つまり、国も個人も答えは自分しか持っていないのです。このことにどれだけ早く気が付けるか否か、という教育こそが今のところ唯一の正解ではないか、というのが私の考えです。
【著者】
吉田 州一郎
(よしだ しゅういちろう)
FRP Consultant 株式会社
代表取締役社長
福井大学非常勤講師
FRP(繊維強化プラスチック)を用いた製品の技術的課題解決、該関連業界への参入を検討、ならびに該業界での事業拡大を検討する企業をサポートする技術コンサルティング企業代表。現在も国内外の研究開発最前線で先導、指示するなど、評論家ではない実践力を重視。複数の海外ジャーナルにFull paperを掲載させた高い専門性に裏付けられた技術サポートには定評がある。
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