FAマーケットが発展する過程で、1970年代前半の頃、FA機器メーカーは省力化の店というチャネルを作った。それは制御機器を売る販売チャネルではなく、省力化設備や治具を製作する小規模ベンダーだった。
当時、中規模程度の工場には数種類の工作機械があって、簡単な社内設備を作ることができた。このような工場にFA販売員は出入りして売り込み活動をした。
しかし、簡単な工作機械もない小規模工場も多かった。そんな工場の中にも動力設備の設置や整備をする電気技術者がいたから、動力をオンオフするスイッチやマグネットスイッチが売れた。そこには主として電設資材の販売員が出入りした。
このような工場にFA販売員が訪問することがあって、制御機器の売り込みをする機会があった。オートメーションに関する話が弾んで「オートメーションでこの線材を定寸断できないか」というような相談をされることがあっても、メカ的に明るくないなかったがゆえに話が前に進まなかった。しかし「このような需要を受けられたら制御機器は売れる」と分かり、そこで作られたのが、メカや筐体が作れる省力化の店であった。
制御機器を搭載した省力設備を作っている店は、当初からほうぼうにあったわけではない。
当時、70兆円だった国内総生産は、1973年には100兆円を突破した。中規模の工場で働く技術者の中には、その頃の製造技術の中心であった動力やメカ技術を習得した後に独立して店を開く技術者がポツポツと出現していた。これらの小規模な店に声をかけ、省力化の店という看板をかけてもらい、省力化の店は始まった。
メカの設計製作をバックに持ったFA販売員は、具体的に簡単な省力化の話を進めることができたため、顧客からの相談を積極的に受けた。それぞれのテーマには困難な箇所が多く、省力化の店の技術では簡単にはやれそうもない内容もあったが経験を重ねた。メカの技術は電気制御技術とは違って現場で実際に稼働させると寸法や位置等の問題が発生するために何度かやり直すことがある。販売員はそのあたりのことに立ち会って経験をしながら、その後のFA需要の裾野を少しずつ広げた。
19770年代後半には国内総生産は200兆円を超え、製造業に勢いがあり、生産力は一層強化された。工場の設備投資は活発であり、機械メーカーはそれに応えて最初の自動機を次々に製造工場に送り込んだ。
工場側の技術者は、自動機の制御技術への関心が向いていたから制御技術レベルは急速に向上した。現場の技術者は、増設される生産設備の稼働や制御技術を使ってラインの効率、安全、品質等の向上で忙しく立ち回る必要があったため、簡易治具の製作には目を向けなくなった。内作用の工作機械は工場の隅に放置された。FA販売員は現場から案件として出てくる商品を追うようになって、いつしか省力化の店との協業はなくなった。
後になって、省力化の店のコンセプトで小規模企業連合ができたが、ほとんどが失敗に終わっている。失敗の原因は企業連合のそれぞれが他の企業への依存が強く、他企業の物件をあてにして、自ら顧客を増やそうとしなかったからだ。特に中核にならなくてはいけない販売店が企業連合の意図する需要を増やせなかったためである。
令和ではFA需要の大型化や先進技術を背景に、FAメーカーはSIierやFAシステムインテグレーターと連合してマーケットを広げている。そのような企業連合に入れない一般の販売店は、省力化の店や1990年代に失敗した小規模記号連合のコンセプトを見つめ直せばいい。FA 需要の大型化や先進技術から離れた工場現場、新しく芽生える産業をマーケットにする小規模企業連合を作り、販売店営業が需要を増やす役割を果たせばいいことになる。